空のある街

見上げれば何時もそこには空がある。
昼も夜も雨の日も風の日も、いつもいつもその場所に空はある。
あまりにも自然に空があるものだから我々は、
空があることに対して相当「無頓着」になってしまっている。
もし仮に、空が無かったら我々は存在しないし、
我々の街も存在しない。
そんな空をもう少し生活の中に意識すべきではないか?
空の歴史が始まって以来刻々とその姿を変え続けて
一日一秒たりとも同じ表情を見せることは無い、実に不思議な「空」
刻々と新しい顔を見せる空を身近に感じながら
日々の暮らしを組み立てていくとすれば
それは、ドラマティックでわくわくするものだ。

空のある街の記録

海が間近にある街ならば
当然の様に住宅や公園のデザインや日々の暮らしは海抜きには考えにくい
例えば家を作るとすれば海が良く見える窓にこだわると思うし、
公園ならば、海の見える側にベンチを向けるだろう…
我々の街はどうだろう?
元々あった小川や、雑木林や、道や、草や、風や空を正視しているだろうか?
永い歳月をかけて作り上げてきた細いあぜ道は、瞬く間に姿を消し、
太い樹木は邪魔にされて伐採されていく
がまの穂の沼も何時しか埋め立てられ、顔の無い街へと姿を変えていく
元々我々の住むこの地は
世界中のどの場所よりも美しかっった筈である。
失われたものを取り返すのはそう簡単なことではない
しかし、見上げればそこにはいつも空があるのだ。
そうなのである。
空にこだわれば良いのだ。
空を意識した家・道路・公園・服・自動車・スポーツ・学校・授業内容…
もし、そんな街が世界の何処かにあったなら、相当魅力的な街であろう。

 


世間には邪魔にされているものが沢山ありますね
大切な仕事をしているのに
嫌われたり邪魔にされたり…
何故なんでしょうね
そんなんで良い訳無いですよね

 

【空のある街1 〜電信柱を作ろう〜 2004年8月/越谷市】

なんとなく邪魔にされている電信柱。
目障りな電信柱は地中埋設をして美しい街を作りましょう!
…と、言うのはあまりにも短絡的な発想。
木が邪魔なら切れば良い…では、アイデアが無さ過ぎである。

昔懐かしい木の電信柱。
宮沢賢治の童話の電信柱。
みなみらんぼうの歌に出てくるような電信柱などは
あまりにも情緒的で素晴らしいものだ。
であるとすれば、空を意識した新しい電信柱を皆でデザインしてみようではないか
きっと、何かが変わり出すに違いない。

 


 

あの日。
神戸の街が火の海に包まれ、大勢の尊い命が失われた。
その前日、私はその街にいた。
私にとっても衝撃のあの日から10年が過ぎた…。

瓦礫の中で人々は、誰かが助けに来てくれる事を強く信じて頑張っていたのだと
思うと、辛く遣る瀬無い思いに苛まれる。
朝、小さかった火は、やがて大火災となり大惨事となってしまった。

勿論消防署の方々は必死に消火活動をされたのは言うまでも無いが、それには限界がある。
今こそ、自分達で出来る事をもっと積極的に考える必要があるのではなかろうか?

 

【空のある街2 〜消火器小屋を作ろう〜 2005年8月/越谷市】

例えば身近な防災グッズ…『消火器』。
しかし社会の主役に躍り出る事は無い。
果たしていつまでもそれで良いとは思えない。
初期消火の重要性に関しては、既に様々な形で立証済みであるが、
なぜか相変わらず、脇役的な存在のままである。
もしかしたら、赤いだけの消火器が、もっと楽しくなれば何かが変わっていくのではなかろうか?
ピカソやダリや尾形光琳の絵が描かれている消火器が有っても良い筈である。
もしそんな消火器が有れば、床の間に飾る人もいると思うし
可愛らしい消火器ならピクニックに持って行くかも知れない…。
仮にそこまでしなくても、もっと生活の中心に
そういった危機管理という文化が気楽に蔓延って行く筈である。

今年の夏。
子供達と一緒に、楽しい消火器がたくさん置かれている小さな茶室を作ろうと思う。
名付けて『消火器小屋』…だ。
街の人々には、『消火器小屋茶室』の井戸端会議を通じてコミュニケーションを
図って欲しいという思いも込められている。

昨年私は、『信長消火隊』と言う民間消火隊を結成した。
織田信長の鉄砲隊がその名前の由来であるが、
鉄砲を消火器に換え、イザという時出動する。

街の主役はそこで暮らす人であり動物であり植物だ。
それらの本来の係わりの重要性を楽しく成熟した形で見直す事が大切なのだと思う。

 


屋根に上ると空がグンと近くなり
いつもの街が違って見える。
ほんの数メートル程の高さの違いなのに
何故こんなに新鮮でドキドキするのだろう…
日々の生活の中で誰しもが経験するこんな感覚。
ほんの少しだけ視点を変えて見るという事が大切なのだ。

 

【空のある街3 〜ヘンテコ屋根と、はっちゃんの広場〜 2006年8月/越谷市】

「空のある街」も、今年で三度目となるが
今回のテーマは、「街」と「いのち」だ。
「街」という抽象的な名称を与えられた器は
一見混沌とした複雑な世界が繰り広げられているように錯覚するが
本質は極めて単純な構造になっている。
結論から言ってしまえば
「街」とは、「命を育む器」なのである。
常にその中心には「いのち」が存在する。
人類のみならず全ての生命体に共通の価値観が「いのち」なのである。

今回お迎えした華道家の谷口雅邦さんの作品「発芽虫」通称「はっちゃん」は
正に「いのち」そのものだ。
芝で覆われた巨大な土の塊「はっちゃん」には、
様々な植物の種が埋め込まれており
その異様な容姿は限り無く迫力の在るものであるが
実は性格温厚そうな「はっちゃん」と呼ぶにふさわしい愛らしさがある。

「はっちゃん」のいる小さな広場を取り囲むようにして
ヘンテコ屋根の街が拡がっている
ヘンテコ屋根に上って街を見下ろすと
「街」と「はっちゃん」の関係がみえてくる。
「街」と「いのち」がみえてくる。

 


 

この世の中には、ゴミは無い
雑草は無い
いらない人間はいない
見方を変えれば、
全ての物質がゴミであり
全ての植物が雑草であり
全ての生命が無意味なものとなる。
ネガティブに考えればそうなるのだ。
ポジティブに物事を直視した時
思いもよらない新しいアイデアが飛び出すものなのだ…

 

【空のある街4 〜藍色の街〜 2007年8月/越谷市】

「青は藍より出でて藍よりも青し」
藍色の小屋を作ろう
この地球に生れた子供達が大人になる頃、この星は、更に輝きを増し「より青い地球」となる事が出来るのだろうか?
今やサンシィティーホールの夏のイベントとして定着しつつある「空のある街」シリーズも今年で4年目となるが、
毎回全力で取り組んできたその意気込みは、甲子園の高校球児にも決して引けをとるものでは無い…かも知れない。
このイベントは、子供達にとってもワクワクするものであると思うが、
これを仕掛ける我々大人達にとっても、日本の将来がこのイベントにかかっている様な重圧の幻との強烈な葛藤がある。
「真剣+真剣+生命+空」という数式が、果たしてどんな答えを導き出すか?
今年特筆すべきニュースが二つある。
ひとつは、「空のある街」のサポーターチームが編成されたという事。
もうひとつは、街に一歩踏み出すという事だ。
江戸時代より続く越谷市内唯一の藍染めの工場「中野型染工場」様の協力を得て、
板を藍で染め布を水藍色に染めて、水藍色の空に包まれた藍色の小さな小屋を作る。
我々は、この街に眠る潜在的な魅力に遭遇する事になる。

 


【空のある街5ーオベント森のオベント小屋ー2008.8/1(金)〜8/3(日)】
会場:ポルティコホール(サンシティホール内)
シンポジウム:8/2(土)17:0〜 18:30



街中に小さな森を作りましょう!
かわいいポスターが出来ました。


2009 空のある街6

 


2010 空のある街7

 


 

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