みんなでホッとする街を作ろう

無機的な人工物に囲まれた現代の街。
人々の生活は常に緊張感に包まれています。
本来、街とは命を育む器であり、
人々の緊張を緩め心を解放する装置でなければならない筈です。

阪神淡路大震災の教訓

一九九五年一月十七日の朝、地震のニュースで飛び起きました。阪神・淡路大震災です。前日まで私は神戸にいたので愕然としました。間もなくして神戸を再訪しましたが、地震直後のその街は言葉に出来ない程、惨憺たる状況でした。「プロ」といわれる人々の作った建物や設備が、この様に簡単に壊れてしまう事が信じられませんでした。一体我々は、今まで何を求めて街作りをしてきたのでしょうか? 神戸から戻ってくると、東京の街の景色がとてもシュールに感じました。大地震が起きたら、当然倒壊するであろうビルや構造物に囲まれた街の中で、人々が平穏そうに生活している事に違和感を覚えたのです。我々はとても不安な街で生活していたのです。数秒後にこの街は消えるかもしれない。明日この道路で家族が事故に遭うかも知れない。・・・そんな不条理な街で暮らす人々の緊張感はピークであると感じました。そして、この緊張感をときほぐして行く様な街作りをしなければならないと思ったのです。的確なコンセプトを立ち上げ、地に足の着いた街づくりを目指す必要があるのです。

安全でホッとする街をめざす

「ホッとする」とは「癒される」という状態に近いと思います。こういった感覚は観念的なものなので人それぞれ違うと思いますが、漠然としたイメージでも良いから、いつも「ホッとする物を作る」という感覚を持っている事が大切なのです。例えば、何人か集まって「ホッとするのはどんな街か」話し合ってみて下さい。恐らくそれらの意見をまとめてみると、居心地の良い癒される街作りに繋がるものと思います。
「ホッとする」と言うコンセプトは、非常に安全な考え方なのです。例えば「近未来志向の街」を作ろうとした時、ただ「近未来」というと、メタリックで無機的なイメージが強くなりますが「ホッとする近未来志向の街」と言えば常に主体は有機的なものとなり、人にとっても居心地の良さが保証されるのです。もし首都高速道路の様な道を企画する段階で、「安全でホッとする高速道路を作ろう」というコンセプトがあったとしたら、今とは全く違う首都高速道路になっていたのではないでしょうか。「ホッとする」・・・この空気みたいに平凡にみえるコンセプトは、もの凄いコンセプトなのです。

コンセプトの無いモノ作りほど虚しいものはありません

物を作るということは、「増やしていくもの」と、思いがちですが、実は、減らして行かなければ作れないものもあるのです。例えば六面体の木があったと致しましょう・・・。この木を、むやみやたらに削り始めたら、殆どの場合、ただの木屑の山が出来ているのではないでしょうか・・・。街作りの計画が平面的で曖昧なものだとしたら、出鱈目な街が出来上がるという事です。
最初にノミを入れようとする時、ノミを持つ者がどんな「コンセプト」を持っているかという事と、最初に存在する「六つの面」についての認識をどの様にしたかという事がポイントです。街作りにはこの過程を経た彫刻的な作り込み作業が大切です。作り込んで行く事によりやがてシンプルな形が現れて来ますが、このシンプルな形は、最初に様々な角度から立体的な考察が加えられていますので、極めて多面的なものを反映した形となるのです。
「地球」と言う六面体の中に存在する生命共通の財産である「土や水」と、そこに住む多種多様な動植物との関わりを立体的に考えていくとシンプルな解り易い形が見えてくるのです。
こうして生まれたのが「安全でホッとする街」というコンセプトです。

 

作るモノ作りから、育てるモノ作りの時代へ

 時代は、「作るモノ作り」から
「育てるモノ作り」への変化を求めています。
 時間をかけて手間をかけて街も人も育っていくのです。

現場主義で行こう

地域の特殊性を生かすには、現場主義に徹する必要があります。机上の論理をどんなに振りかざしても、それは所詮机上の論理。畦道の草花の魅力には、人工的な花壇は及びません。「自然」とは実に深い思慮の上に成り立っているのです。地域的環境や歴史と共存して行くには、常に自然の成す業に学び現場主義に徹する必要が有ります。日本中いたる所で似た様な建物や公園が作られていますが、これはただ単に机上プランの出前をしている様なもので、手抜き作業と言わざるを得ません。

また、様々な問題を解決するのも徹底した現場感覚が無ければいけません。
問題解決には、瞬時に動く事が重要です。例えば「○○の地域にいつ頃地震が発生するか」という事を考えるより、そこに建っている建物が壊れそうなら即座に補強工事をする事の方が重要です。危険な道路や教育現場・・・。
ありとあらゆるシーンでこの考え方が必要です。

古い物や文化を大切にしよう

一度壊すともう二度と手に入らない街の風景や文化があります。それらを大切にして行かなければ、落ち着いた情緒的な良い街は出来ません。エアコンが普及して窓を締め切りにする事になり、住宅の外部環境に関心が薄れた様に思います。エアコンが無い時代は、涼しい風を室内に取り込む為に様々な工夫をしました。木を植えて日陰を上手く利用すれば本当はエアコン以上に快適な夏が過ごせるのです。上水道の普及により水の安全は確保されましたが、かつては生活の中心だった筈の川はドブ川となりました。古い建物もどんどん壊されていきます。手直しをしながら何十年も使い続けていく方が味のある街になるのに残念です。
開発という名の下に元々の森や畑を壊していくような造成工事が相変わらず行われていますが、長い時間が掛かって作られた自然の地形や美しい田畑をもっと大切にして欲しいものです。
「近代化」は、時として古い習慣や文化を壊滅させようとします。本当に理想的な近代化とは、古いものを最大限に尊重し生かしていくことなのです。
森や川や古い町並みや文化との関わりを変質させていくのでは無く、それらとの関係を発展させていくことが本当の近代化なのです。

環境問題は人の心の問題です

どんなに木を植えても、落ち葉をゴミだと思っている人が増えればその木は切られてしまう。どんなに畦道が気持ち良くても、利便性の追求により何百年もかかって作られた健気な細道は一瞬にして破壊されていく。人々の繋がりも同様に次から次へと分断されていく。今必要なのは、人々の心の成熟したネットワークなのです。環境問題のみならず様々な社会問題の多くはそれぞれが深く関わっています。何故なら、それらの問題の発生源が「人の心」であるからなのです。個別の問題を考えていく事も必要ですが、常に「心の問題」が在る事を忘れてはなりません。緑を増やしたければ、緑を好きな「人」を増やせば良いのです。大人も子供も、土や水や植物に積極的に関わる社会を作らなければならないと思います。そしてそれを継続していくことこそ大切なのです。さもなければ、我々の世代が残した森や川を次の世代が壊していくかも知れません。かつて我々が街道の並木や残さなければならなかった文化を捨て去った様に・・・。

多種多様なものを尊重していく事が大切です

多様性を持った環境作りが大切です。
例えば空き地を緑化する際、多種多様な植物のコロニーの豊かさを享受出来る様な緑化が望ましいと思います。地球上には、様々な動植物が共存しており、様々な文化や思想が同居しているのです。人もそれぞれ個性的だからこそ素晴らしいのです。
多種多様なものを尊重する事が大切です。芝生は良いけれど草は嫌とか、常緑樹は良いけれど落葉樹は駄目とか・・・それらの存在する意味を充分に考えずに、安易な差別は地球規模のグローバリズムが大切な時代に於いては、もはや陳腐化した考え方だと言えます。

プロジェクトを進めていくと、単純な方が解り易いので、つい単純化してしまいがちですが、本来は多種多様な複層構造の方が豊かなプロジェクトです。今まさに多様性に富んだ企画が求められているのです。

「作るモノ作り」から「育てる物づくり」の時代

農家の物作りにこそ、学ぶべき事が沢山あります。
例えば、一反の田圃で稲を栽培する際、必要とされる籾の量がどの位だかご存知でしょうか?およそ三升(約4・5kg)と言う事です。一反辺り八俵の米が採れたとしたら実に百倍以上の収穫です。そこには農家の方々の知識と労力が、惜しみなく注がれているのです。
それを街作りでも実践すべきです。労力を惜しまず「街」という生き物を育てていかなければいけないのです。
庭に芝を張る際に1平方メートルの芝をそのまま張ったら100平方メートルで百枚の芝が必要となりますが、1平方メートルの芝を5センチ角にカットして400ピースに分け、それを1平方メートル毎に4ピースずつ植えていけば、1平方メートルの芝を、なんと100平方メートルの面積に拡げて植えつけることが出来るのです。それを他人任せにせず地域の大人や子供が参加して共同で行う事が大切です。
手間の掛かった分だけ愛着もわくし、手間がかかるからこそ人々の成熟したコミュニケーションが育まれるのです。「育てる物づくり」の発想が至る所で必要です。それがコストパフォーマンスが高いだけでなく人の心も育てていく物作りなのです。

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